Written by Sayaka Nishide.

「結婚=幸せ」ではない。

ASD LOVE 恋愛と結婚 恋愛について

雑誌、テレビ、ネット、メディアが発信する「結婚」には、“幸せ”なイメージがあった。

白いドレス、みんなの笑顔、止まらない嬉し泣き。
結婚式場では感動の連続が起こっているらしい。

結婚に関する雑誌を見ると、花嫁と花婿の写真の背景には、どこから飛んできたのか、白くて分厚い花びらが盛大に舞っている…

結婚雑誌を見て目に入る色は、安心を感じる淡いピンク、誠実さの象徴であるライトブルーに、ティファニーを彷彿とさせるターコイズの上品な色、そして調和を思わせるライトグリーン。

まるで「結婚は幸せなものだ」と刷り込まれているような感覚になるが、私は結婚が幸せなものだと思えたことがなかった。ただ、不幸だとも思えなかった。

何も思えたことがない。

まさに「無」だ。
感情が全く動かない。

これはASD気質が要因なのか、アスペルガー特有のものなのか、家庭環境なのか性格なのか分からないが、泣けないし笑えない。

どこが幸せなのかわからない。

そんな私に親友から「結婚式をするから来て欲しい」という声がかかった。

私はその親友が心の底から大好きだったから、即「いいよ!」と返事をした。

その子は優しい福祉職の子で、私が冠婚葬祭を苦手に思っているのを知っていて、
「カメラマンとして来てほしい、するべきことがあれば、苦痛じゃないんじゃないかな?あなたの写真が大好きだから、撮ってほしい!」と親切に頼んでくれた。

私は昔から「するべきこと」がないと動けない気質だった。
だから飲み会にも率先して行ったことがないし、休日に皆で海に行こうという計画も立てたことがない。
誘われたら行くがテーマパークも好んで行かない。(もし行くなら本当に一人で行きたい)

それを知っていて親友は気を使って頼んでくれたのだ。

私はその子が結婚するときに嬉しそうで、羨ましかった。

結婚自体が羨ましいというより、結婚することで嬉しい感情がある親友が本当に羨ましかった。

自分は幼少期から、大事な人の心に少しでも「共感」したくてたまらなかった。
昔から周囲の人と共感できることがかなり少なく、心から笑ったり泣いたりできない自分は、今度こそ共感したいと思った。

「人と感性が違うことは良いことだ」と言われたことが何度もあるのだが、違いすぎるとただの孤独者でしかないことくらい分かってほしい。

例えるなら楽しそうなヒツジの群れに、ヒツジの着ぐるみを着て汗だくになったオオカミが突入していくような感覚。自分ではない誰かを演じ続け、オオカミだとバレないように周囲を気にして生きていた。本音を言ったら逃げられる、バレたらきっと怖がられると思ったので、昔は本当に周囲が怖かった。

私は小さい頃から、みんなが笑っている最中に「全く笑えないです」と、胸を張って本音を言えなかった。空気を止めるので言えるわけない。しかし本当は言いたかった。家庭でも学校でも本音を言えない気持ちを重ねに重ね、胸には真っ黒な鉛が溜まって重苦しい学生時代を過ごした。
本当に歩けなくなることが何度もあり、慢性的な鬱病だったのかもしれない。

私は大好きな親友の気持ちをわかりたいと思い、想像してみた。
しかし毎日想像しても、微塵も心が動かない。
好きであることと、共感できることは別物だ。
「結婚のどこが幸せなの?」なんて聞けるわけないし、悲しませたくないので、笑顔を取り繕って喜んでいるふりをしてしまった。それが苦痛で、本当は「ごめん、私には分からない感情だわ!w」と、気楽に話していたかった。

しかし、せっかく撮らせてもらえるならば私も共感して撮りたい、親友のために頑張りたいと思った。
親友の喜びを一緒に喜びたいと思ったが、結果は失敗に終わった。

写真は撮れたが、本音のボロが出て、結局親友には「苦しませてごめんね」と言わせてしまった。
私は共感できないことに絶望し、また胸に鉛がたまった。

「ごめん。親友なのに、私のせいで連絡も取れなくなってしまったね。」と、心の中で思っていた。

それから2年後、私は7歳年下の人と結婚することになった。
曖昧な関係が苦手な自分は「家族です」という証明を書面で残したかったので結婚した。恋愛結婚ではないし、交際0日婚だった。

そこに感動の涙もないし、嬉しいという感情も湧かなかったが、目の前にいる結婚相手も同じく、なんの感情も湧いていなかった。

家の玄関付近で「結婚しよう」と言ったら「わかりました」と言われただけだ。
(のちにディズニーランドでもう一度プロポーズして相手が泣いてたが他の理由もあり泣いてた)

その結婚相手の無表情ぶりをみて、気づいた。

「結婚は幸せでなくてはいけない」という決まりを自分に押し付け、意味のない縄で思いきり自分の心を縛っていたことに気づいた。

「泣かなくて良いし、笑わなくて良いし、幸せだと思わなくて良いし、自分らしく『無』でいて良いのだ」と気づいた。

それと同時に、2年前の親友の結婚式で「結婚は幸せなものだ」と思わなくて良かったのだと気づいた。

「親友が嬉しそうだから、私も嬉しい」
ただ、それだけで良かったのだ。

その親友が嬉しくなる“理由”だけにフォーカスしてしまった自分を悔やんだ。

その親友が結婚しようが、結婚をやめようが、就職しようが、出産しようが、何があろうが、そんなことより先に、その親友が感じている感情だけにまずフォーカスしたら良かったのだと思った。

「結婚=幸せ」という気持ちも、「出産=おめでたい」という気持ちも、「離婚=不幸せ」という気持ちも自分の中には無い。

離婚して幸せな人もいれば、結婚して辛い人もいる。目に見える状態だけで周囲が勝手に本人の気持ちを決めつけてんじゃねえぞと昔から思っていた。

この自分のありのままの状態で良いと思った。

理由はなんであれ「あなたが嬉しいから、私も嬉しい」「あなたが悲しいから、私も悲しい」で良かったのだ。

その親友と、久々に電話で話せることになった。

今度は親友と、親友の旦那と、その二人の間に生まれた子どもの家族写真を大切に撮りたい。

理由にフォーカスして共感しようとするのではなく、相手の気持ちを自分なりに考えて、できれば共鳴して、撮って贈りたいと思う。

私が親友を好きな気持ちは、出会った日からずっと変わらない。